「雲立の楠(クモタチノクスノキ)」の由来
元亀元年(1570年)には、徳川家康公が居城を岡崎城から浜松城に移して以来、源頼家の東征我祈願の由緒があり、さらに浜松城の鬼門鎮守の氏神である浜松八幡宮を祈願所として幾度となく参拝しており、武運長久を祈ったと伝えられている。
元亀3年12月(1572年)、三方ヶ原合戦に敗れた家康公は、天林寺に入り、義俊和尚の案内で浜松八幡宮へと逃れ、社殿前の楠の洞穴に潜み、武田軍勢の追ってから逃れて武運を祈願したと言われている。
家康公が祈願すると楠の上に端運が立ち昇り、神霊が白馬に跨って浜松城の方向へ飛び立った。
家康公はこれを見て「戦われに利あるべし」と勇躍し、無事に浜松城に戻ると武田軍勢の浜松入城を防いだといわれる。
この事から、社殿前の楠(御旗の楠)を「雲立の楠」と称する様になったと伝えられている。